
戦後復興~高度成長時代(1946~1965)
創立から草創期

(大阪市北区梅田・国鉄高架下)
1945年(昭和20)8月15日終戦。
荒廃した国土、食糧難、700万人以上とも言われた失業者・・・混沌の中、翌1946年(昭和21)5月、GHQは失業者救済を目的として、公共事業費60億円を充てることを政府(吉田茂内閣)に指令しました。
時を同じくして、技術者は国土復興と海外帰還技術者救済を使命とする社団法人設立を働きかけ、同年6月1日に内閣総理大臣から設立許可を受け、社団法人 復興建設技術協会の発足をみました。現行憲法公布に先だつこと7ヶ月余でした。
CFKは復興建設技術協会 近畿支部として事務所を開設、同年12月に大阪市北区茶屋町省線(現大阪環状線)高架下で測量調査を皮切りに業務をスタートさせました。
公益法人から株式会社へ
着実に実績を積み重ねる中、1956年(昭和31)に科学技術庁が発足、翌年建設コンサルタントの拠り所となる技術士法が制定され、職業として認知される契機となりました。時代は「もはや戦後でない」が流行語となり、名神高速道路、東海道新幹線の国土軸となる高速交通網が相次いで閣議決定されていました。
以上の背景の下、公益法人の収益事業を切り離し1959年(昭和34)4月株式会社近畿復建事務所が誕生しました。(社長:高橋末次郎、資本金250万円)奇しくも前日、東海道新幹線は起工式を迎え新時代の幕開けを象徴するものでありました。
高度成長のもと
新会社の船出直後に社章を制定、さらに拡大した分室の統合に向けて東淀川に本社用地を取得。政府が所得倍増計画を決定した翌1961年(昭和36)3月に新社屋が落成しました。この時期には、社内体制の強化が加速し、社内報の創刊、規程の整備、福利厚生活動支援等就業環境の充実とともに、現在も脈々と受継がれる社歌、社是が制定されていきました。
安定成長~阪神淡路大震災(1966~1997)
CFKの時代-公共投資の伸長-
東海道新幹線、名神高速道路が開通し、活動エリアは全国に拡大する中、1965年(昭和40)6月藤田専務が新社長に就任しました。同時に将来を見据え、社内報を「復建ニュース」と改称、明けて創立20周年の節目である1966年(昭和41)7月1日に中央復建コンサルタンツ株式会社に商号変更を行いました。(社員215名、出来高5.5億円)
社会資本の充実に向け公共投資が伸長をする1971年(昭和46)本社機能を東淀川に移転及び東京営業所を開設、関東活動拠点が立ち上がりました。
財政再建と行政改革を経て
1973年(昭和48)のオイルショックによる不況の煽りを受け公共投資が衰退に転じますが、藤田社長の堅実経営は先見性に秀でたものでありました。この時期いち早く週休二日制を導入、新分野への投資や東京営業所の支社化等、社内士気を維持するに十分な施策が打ち出されました。
1979年(昭和54)に藤田社長を継いで村瀬社長が就任し、堅実経営の方針を踏襲しつつ、1984年(昭和59)技術本部制の導入および1支社4営業所から成る組織改編を行いました。翌1985年度(昭和60)には初めて業務量50億円を達成しました。
1986年(昭和61)丹原社長就任時は、行政改革が進められ、翌年には国鉄民営化によりJRが発足しました。前後してバブル経済に突入、1990年(平成2)日米構造協議を契機に公共投資は拡大に転じました。
平成の幕開けと阪神・淡路大震災の発生
年号が平成となって間もなく、財団法人建設コンサルタント協会が中長期ビジョンとしてATI構想を発表した事を受けて、翌1990年(平成2)6月「CFK VISION 1990」を策定しました。全社で、企業理念と経営基本目標を共有するものでした。以降、1992年(平成4)就任の片瀬社長のもとアクションプログラムを毎年立案し、着実に実践していきました・・・。
1995年(平成7)1月17日早朝、激震が起きました。阪神淡路大震災発生。本社も罹災するなか発災当日から復旧への想いに滾り現場に赴いていきました。
21世紀を経て70周年に(1998~2016)
復旧を経て情報化社会へ

震災関連業務に全社挙げての総力体制で臨んだ年が明けた1996年(平成8)3月、自らの体験を基に「災害行動計画」を策定し、事前対策を含めた責任体制を明確化しました。さらに新社屋への移転によりCFKの防災対策は大きな進歩を遂げました。
震災関連業務が復旧から復興へと移りゆく同年6月1日、CFKは創立50周年を刻みました。被災した東淀川本社の敷地内駐車場での式典挙行は、役割を果たした本社屋への惜別の念で感慨深いものでした。同時に新ビジョン「CFK VISION 21」を発表。社会環境の変化の中で自らも変革を遂げるべく、新世紀に向けた指針が示されました。同年、建設省が「建設CALS/EC整備基本構想」を発表、建設業界の電子化、情報化推進を打ち出したことを受け、CFKも7月に社内LANを稼動開始、11月にはPCが全社員に配備されました。その後の情報技術の発展がめざましい事は論を俟ちません。
1998年(平成10)には、企業理念(倫理方針と行動規範)を改訂、続いて年内にISO9001、ISO14001の認証を取得し、WTO政府調達協定発効による市場開放の広がり、財政構造改革による公共投資の急減、及び公共事業再評価システムの導入への備えを進めていきました。
構造改革で迎えた新世紀は技術競争へ

2000年(平成12)、業務領域の明確化を意図して組織を改編。技術力アピールに新たに広報誌CFK NETWORKを創刊、復建ニュースは社内誌としてCFKコミュニケーションに刷新して新世紀を迎えました。
2001年(平成13)は省庁再編による国土交通省の発足で明け、4月に神戸支社の設立。7月に就任した朴社長のもと現在の新社屋が12月に竣工をみました。同年は小泉内閣が発足「聖域なき構造改革」を推進し、9月に米国同時多発テロ発生、10月には電子入札・納品が試行される等記憶に残る一年でした。
2002年(平成14)は海外市場進出の成果として、中国業務を初受注しました。5月には組織改編、総合技術グループを設け、現行組織の礎としました。国土交通省は成績評定要領を制定、2005年(平成17)の品確法の施行まで連なる、技術競争による発注契約方式への変更を進めつつありました。
小泉内閣は5年半に及ぶ長期政権となり、2005年(平成17)の道路関係公団民営化、2007年(平成19)の郵政民営化を果たして退陣しますが、公共投資削減の流れはとどまる事なく、2011年度(平成23)にピーク時の半分以下となる16.9兆円まで減少し、労務単価も同年まで下落し続けました。

この間、団塊世代の定年退職と賃金下落の影響から「技術継承」と「担い手不足」が大きな懸念となっていたさなか、2008年(平成20)に就任した瀧田社長は、業務効率化と技術力向上、新領域への挑戦を掲げ、GMを配置する本部制の現体制に組織を改編しました。同時に広報誌と社内誌をCFK NETWORKに統合、CFKの技術紹介ツールとして編集方針を改めました。
2010年(平成22)に就任した永野社長は脈々たる経営方針を受継ぎつつ、働き方改善をトップダウンで断行し、長時間労働が劇的に削減されました。翌2011年(平成23)3月11日東日本大震災が発生。翌日の九州新幹線全通がかすむ衝撃でした。前年に締結した「復建6社災害時支援体制構築協定」が適用され、東北の復旧を力強く支援しました。半年後には体制増強により仙台事務所は東北支社に改組されました。
さらなる飛躍へ
2012年(平成24)国土交通省は、CIMの推進を公表しました。CFKは新領域への挑戦の方針に則り、先んじて技術開発、学識者等との意見交換等を通じて、業界の牽引者でありトップリーダーの地位を確固たるものとしています。同年12月の笹子トンネル事故を契機に、社会資本メンテナンスが謳われる維持管理・保全点検業務は、創立以来のコアたる鉄道関連業務とともに、重点注力分野として高い技術競争力を備えています。
2014年(平成26)7月、兼塚社長は就任時に人財の確保と育成を掲げ、CSに加えて「ES=従業員満足度」の向上をめざしキャリアパスの明示を提起し、翌年には「中期経営計画」を発表、持続的成長と社員処遇向上を果たすための目標を具体に示されました。
そして2016年(平成28)、CFKは創立70周年の節目を迎えました。新たな10年、20年と持続的成長を果たすため、建設コンサルタントの矜持をもって・・・歩みは続きます。

MURAKAMI Hitoshi
取締役
管理総務本部長