
SAWANO Yoshinobu
常務取締役
CFK大阪本社がある新大阪駅東口界隈。
この地域で「江戸時代の農民たちが新幹線をつくった?」をお題に、街歩き番組風にブラブラ歩いて、その謎を解き明かします。
中島大水道
さて、新大阪駅東口から東に(①)徒歩で5分ほど歩いた交差点(X型横断歩道橋)の南側にCFK本社ビルがあります。この道、交差点を越えると北に曲がり(②)新幹線の高架橋と並行した道に(③)繋がります。

①

②

③
このあたりは江戸時代、神崎川と中津川(現在の淀川)に囲まれた低湿地で、雨が降ると農地に水が頻繁に溢れていました。
この地域に属する22か村の農民たちは、団結して代表者を江戸に送り、幕府に排水路建設を訴えましたが、幕府の許可が下りず、困り果てた農民たちは、無許可のまま自己資金で排水路を完成させました(1678年)。この排水路は、中島大水道と呼ばれ、全長:約9.5km、幅:平均22mの大水路です。ところが、代表者の3人の庄屋は、無断で水路を完成させたため、幕府から罪を問われ自害したといわれています。
1885(明治18年)の地図をみれば、多くの農村集落や農地の中を中島大水道が貫かれていることが分かります。

新大阪駅に至る新幹線のルート
新大阪駅位置の計画は、東淀川ルート案(戦前の弾丸列車計画のルートを踏襲)、西宮原操車場付近ルート案、大阪駅併設ルート案の3案がありましたが、1960(昭和35)年1月、西宮原操車場付近ルート案に決定されました。新幹線開業(1964年10月)の僅か4年9ヵ月前でした。
決定案である新大阪駅に至るルートは当初、R=2,500mで結ぶ路線が考えられていましたが、人家密集地で用地確保に手間取ることを避けるため、中島大水道を利用することとなりました。その結果、新大阪駅の入口ではR=500mの曲線を使用することとなりましたが、新大阪駅は通過列車が無い駅のため小半径の曲線を使用しても運転に支障ないと判断されました。
その後、国鉄大阪幹線工事局管内約120kmを3工区に分けて中心測量・設計測量業務が発注されますが、CFKは、その内の1工区(京都市東山区~大阪間)を実施し、用地丈量測量業務も、総延長で約44kmの区間を担当しました。


新幹線開業時、新大阪駅東口付近の中島大水道は、いまだ存在しています。その後、新大阪周辺の土地区画整理事業により道路(幅員:20m)に生まれ変わり、CFK社員は毎日、この道を歩いています。
【参考文献】
1)国土地理院 地理院地図Webサイト
2)東海道新幹線工事誌、大阪幹線工事局、1965
3)新大阪の建設、大阪市都市再開発局、1975