建設コンサルタントはどうあるべきか【前編】

海外との接点を持つと、日本との違い等を考えさせられます。それは、技術的なことだけではなく、そもそも我々の仕事の仕方、働き方等、ひいては日本の建設コンサルタントの役割等、取り巻く背景についても考えさせられることがあります。

本稿は、そのように感じたこと、思ったことをつづるとともに、これからの建設コンサルタントのあり方について考えます。

1.日本の建設コンサルタント の生い立ち

そもそも日本の建設コンサルタントはどのように生まれて、現在に至ったのでしょうか。その生い立ちに関して振り返ります。

建設コンサルタントの誕生

第二次世界大戦前の土木事業は、官公庁が自ら技術者を抱え、企画、設計、施工を直轄直営方式にて実施していました。

戦後、土木業界をとりまく課題として進駐軍の設営と国内産業の復興によって土木インフラ整備の需要が増大するとともに、これらに米国流の諸施設が要求されました。一方で、外地(海外)からの帰還技術者が多く発生し、その処遇が課題でした。

この解決策として、外地帰国者等からなる民間技術者が政府の膨大な仕事を手伝うということをはじめました。これが日本での建設コンサルタント業のはじまりです。一般社団法人 建設コンサルタンツ協会の「創立三十周年記念誌」(1993年発行)では、当時設立された建設コンサルタントが紹介されています。建設技術研究所、日本工営、パシフィックコンサルタンツの設立の話に並んで、外地鉄道関係者を中心に、1946年(昭和21年)日本国有鉄道の援助の下に社団法人 復興建設技術協会が発足したことが紹介されています。この復興建設技術協会の近畿支部がCFKのルーツであり、CFKは建設コンサルタントのパイオニアの1つです。

戦後の建設コンサルタントの設立
出典:一般社団法人 建設コンサルタンツ協会「創立三十周年記念誌」(1993年発行)

技術士会の誕生

戦後、建設コンサルタントの仕事は年々増加していました。ゼネコン等の民間のコンストラクターに対しては「建設業法」(1949年公布)が制定され、官公庁の専業であった工事施工が請負として民間に移り、彼らに対する社会認識も高まりました。一方で、建設コンサルタントは、そのような“なりわい法”も無く、社会認識は低いままでした。

欧米諸国では、技術、知識を提供することで対価を得るコンサルティング・エンジニア制度があり、コンサルティング・エンジニアは、立派な職業として安定した地位を確保されていました。このような制度の日本への導入機運が高まり、1950年コンサルティング・エンジニア協会設立準備委員会が発足し、コンサルティング・エンジニアの適訳として「技術士」という新語が作成されて、1951年に日本技術士会が設立されました。
※技術士会の英訳は当初「Japan Consulting Engineers Association」であった。2000年に「The Institution of Professional Engineers,Japan」に変更された。

自立に向けて

1959年に建設事務次官通達により、「設計・施工分離の原則」が示されるとともに、建設コンサルタント業の存在が認められることとなりました。これを追い風に仕事は多くなり、業者数も増加しました。
※「土木事業にかかわる設計業務等を委託する場合の契約方式等について」(昭和34年1月19日建厚発第3号)

一方で、建設コンサルタントが知識を提供して対価を得ているか(単に官公庁の手伝い仕事であって、機械的に仕事をして成果を得ているような状況ではないか)、コンサルタントが社会的に認識されているか、といった課題がありました。真のコンサルタントとして発展させるべく、建設コンサルタンツ協会が1963年に設立しました。なお、1962年には本協会近畿支部の前身となる「阪神地区建設コンサルタンツ協会」が設立されており、CFKがその設立に大きくかかわっていました。

建設コンサルタンツ協会は、コンサルタントの社会的地位向上を目指し、様々な協会活動を行っています。その一環として、1980年代より欧米諸国に渡航し、海外の同業他社であるコンサルタント業界の現状(制度、技術者単価、年収 等)を調査する等、海外にも目を向けた活動を継続しています。

2.都市をつくる 建設コンサルタント

建設コンサルタントは、土木技術を通じて、国土・都市・地域づくりに貢献してきました。ここでは、都市づくりにおける建設コンサルタントのあり方を考えます。

建設コンサルタントと都市

1933年、CIAM(近代建築国際会議)第4回会議(テーマ:機能的都市)でまとめられた「アテネ憲章」では、都市は「太陽・緑・空間」を持つべきであるとし、都市を構成する機能は「住む」、「働く」、「余暇」、「交通」の4つとされ、その後の世界各地の都市計画に大きな影響を与えました。これは、建築家ル・コルビュジエ(1887~1965年)が提唱した「輝く都市」の理念に沿ったものです。

その後、アメリカの大都市が自動車中心になり、人間不在の状況になっていることに疑問を持ったジェイン・ジェイコブズ(1916年~2006年)は、著作「アメリカ大都市の死と生」(1961年)で、魅力的で活力のある都市には街路や街区の多様性が必要であり、ル・コルビュジエの「輝く都市」など、機能優先の近代都市計画の理念を批判し、都市計画思想を一変させました。

一方、どちらの都市計画思想においても、「交通(街路を含む)」は都市を構成する基盤的な機能とされ、「住む」、「働く」、「余暇」といった機能を支えるとされています。言い換えれば、「交通が都市をつくる」とも言え、その計画や設計を行う役割は現在、建設コンサルタントがその一翼を担っています。

道路が都市をつくる

LRTが都市をつくる

街路が都市をつくる

建設コンサルタントと建築家

江戸時代、日本では伝統的に設計と施工を兼ねる大工棟梁が建物をつくってきました。明治に入り、西洋にならって建築家という職能が生まれました。建築家は、発注者の代理人として、施工業者から独立した立場で、発注者の要望に応え設計を行い、その建設に関する監理を行ってきました。

一方、日本国内の土木事業では、官公庁のインハウスエンジニアが直営で設計・施工を行ってきました。戦後、設計・施工を外注するようになり、その内、設計の役割を建設コンサルタントが担うようになりました。

民間事業を主に担う建築家と公共事業を担う建設コンサルタントの違いはありますが、1968年の鹿島論争(鹿島守之助と日本建築家協会との間で交わされた「設計施工一貫か否か」を巡る論争)に対しては、建設コンサルタンツ協会も設計施工分離であるべきとの意見を支持し、それぞれの役割の自立・独立性を堅持してきました。

建築学や土木工学などの学問の分野をみると、都市計画、構造力学、土質力学など共通の学問分野もある一方、「交通」に係る学問分野は、主に土木工学が担っています。すなわち、魅力的で活力のある都市をつくるためには建築学と土木工学の合作が必要なのです。

中国・鄭州の新都市計画プロジェクト
建築家:故)磯崎新氏とのコラボ
阪神電鉄 神戸三宮駅改造計画・設計
CFKの土木と建築の技術者の合作

社内外の専門家との協働

ここで、土木技術者に「建築」の専門家になれと言っているのではありません。日本でも海外でも、実業の現場では、会社などの専門家集団や技術者は、それぞれの専門分野や領域を棲み分けています。そもそも、都市をつくるには、多くの専門分野の技術や経験を融合・調和させる必要があり、その技術や経験を一人の専門家で担うことは不可能です。すなわち、社内外の専門家が協働しないと魅力的で活力ある都市をつくることはできないのです。

建設コンサルタントの活躍の場の拡大

海外の土木事業では一般に、国際的なFIDIC約款に準拠した契約約款が適用され、日本国内での二者関係(発注者/請負者)とは異なり、三者関係(発注者/エンジニア/請負者)の形態で事業が運営され、建設コンサルタントは、第三者技術者(もしくは発注者の代理人)として設計・工事監理を行っています。

日本の社会も大きな転換期を迎え、建設コンサルタントの活躍の場は、これまでの社会基盤施設の計画・設計などに限らず、これまでの技術や経験を基盤とした上で、多種多様な場に拡大しつつあります。

個々の技術者とその集合体であるCFKは、これまでの建設コンサルタントの既成概念にとらわれないコンサルティング・エンジニアとしての新しい価値、生き方に、一歩踏み出そうとしています。

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