末 祐介

女川町で建設コンサルタントの
新たなあり方に気づきました。

People

計画系部門 総合政策グループ

1999年入社

末 祐介 Yusuke Sue

京都大学大学院 農学研究科修了。農業土木を学んだ後、1999年、中央復建コンサルタンツ入社。地域計画室配属。大阪本社にて駅前広場や道路設計など数々のプロジェクトに携わったあと、2003年、中国へ赴任。新設する地下鉄網計画や駅周辺の都市開発計画を担当。2011年6月より東北支社に赴任。宮城県女川町の復興を支えるコーディネーターとして、女川駅のまちづくりに関わる。

担当者から担当者へ 思いをバトンタッチ

子どもの頃、熱中したのはブロック遊び。建物を作ることが好きで、幼稚園の頃から将来はまちをつくる仕事をしたいと思っていました。高校生の時、たまたま読んだ本に都市計画と呼ばれる分野があると知り、将来はその分野に進むことを決めました。僕は大阪出身で、京阪神のまちが好き。だから就職するなら大阪の会社が良いと思い、CFKへ入社したんです。

入社後は、施設計画やまちづくり計画を担当する地域計画室(当時)に配属になりました。勤続20年、さまざまなプロジェクトに携わってきましたが、1年目で初めて担当した仕事のパースは、今も捨てられず僕の手元にあります。

任された仕事は、京都のとある駅前広場の計画とそこから伸びる高架下道路の計画でした。先輩と二人で担当し、模型を作ったり完成予想パースを作成したりしましたね。未熟者なりに一生懸命アイデアを出して、どうすれば魅力的な空間デザインになるかを考えていきました。

参考にしたのは、ヨーロッパの街並みの作られ方。居心地が良さそうなヨーロッパの街並みでは、歩く人が主役になっています。この仕事で計画する道路は、自動車の交通量が多くない。そこで、クランクやハンプという手法を取り入れながら、人が歩いて楽しめる空間作りに挑戦しました。

道路設計をする段階では、CFKの道路部門にバトンタッチしたのですが、「できるだけ歩く人が主役となる思想を取り入れた設計にしてほしい」という僕の要望にも、先輩方は快く答えてくれて心強かったです。部署を超えて、担当者同士の思いをつなぐことができたプロジェクトになりました。

背骨となった中国での都市開発計画

2003年9月から2005年4月までの約2年間は、中華人民共和国の長江デルタにある無錫市、常州市に駐在しました。CFKが無錫市、続いて常州市の地下鉄全体のマスタープランづくりを受注したためです。300万人都市に地下鉄を走らせる計画をゼロからつくり上げていきました。

当時の中国は、経済発展に伴い爆発的に自家用車が増え始めた頃。人口300万人の大都市にも関わらず、主な通勤手段は自転車とバスでした。大阪市よりも人口の多いまちにJRの環状線にあたる鉄道も地下鉄も無かったため、まちのあちこちで道路渋滞がひどく、通勤にも一苦労だったんです。何もないところから、どういう交通体系をつくるとまちが発展していくのかを考えられたことは、貴重な経験になりましたね。

中国赴任を終えて日本に戻った後も、中国業務グループに所属し、都市開発計画の案件を手がけていました。中国では、まっさらな更地に駅やマンションをつくり、新しく10万人規模の都市をつくる計画が、あちこちで進んでいました。日本では高度経済成長期にニュータウンが次々に生まれましたが、現代の日本で大規模開発を担当する機会はほとんどありません。中国でゼロからまちを構想する業務に携わったことは、今の僕を支える背骨のような経験です。

東日本大震災で活かされた ゼロからまちを構想する経験

2011年、東日本大震災が起こりました。その年の6月、CFKに「宮城県女川町の復興計画策定をサポートしてほしい」という依頼が舞い込んきたんです。女川町は8割の家屋が被害を受け、壊滅状態。まちを作り直さないといけませんでした。それならば、中国でゼロからまちを構想してきた僕が適任ではないか、と選ばれたんですね。

2011年6月8日、女川町に足を踏み入れました。そこに広がる世界は、テレビや写真で見るより酷い状況で。港町は津波に飲み込まれ、テレビには映らない悪臭や飛び回るハエが、被害の甚大さを物語っていました。

僕は復興計画の策定チームの一員として、計画づくりに取り組みました。まず駅を復旧させ、駅の周りに商業地や交流の拠点を集約、住宅は高台に移転して、「歩いて楽しいまちをつくる」ことが決まりました。

計画策定で大切にしたのは、女川町に住む人がこれから復興していくまちに対して、どれだけ自分たちのまちだと実感してもらえるかです。だから、計画策定の過程で町民の皆さんの声を聞き、できるだけ町民の皆さんに関わってもらうことを意識しました。

町役場主催の復興計画の説明会は、定期的に開催されていました。しかしそれだけでは、仕事の都合で参加できない方もいますし、町民の皆さんの声を十分にお聞きできる訳でもありません。そのため、まちづくりコーディネーターとして、僕が行政の目となり耳となり、仮設商店街のバーや土日のイベントに顔を出し、町民の皆さんに話を聞きながら女川町の新しいまちをデザインしていったのです。

僕がしたことは、従来の計画や設計を主とする建設コンサルタントの仕事の範疇には収まらないことかもしれません。しかし住民、役場、事業主などさまざまな関係者の話を聞きながら、制約条件のある中でいかに最適解を見つけるかをコーディネートする役割を果たす人が足りていないという認識がある中で、やる人がいないなら僕がやろうと自然と体が動いたのです。

女川町で見つけた 新たな建設コンサルタントのあり方

現在、JR女川駅周辺は「レンガみち」と呼ばれるプロムナードに沿って、商店街やコワーキングスペース、温泉など賑わいのスポットが立ち並んでいます。駅から海に向かって一直線に伸びる「レンガみち」の先には水平線が広がり、朝日が顔を出すのですが、これは町民のアイデアから実現したもの。元旦には、多くの人で賑わうスポットになりました。

グッドデザイン賞やアジア景観賞、都市景観大賞の国土大臣賞を受賞するなど女川町の駅前開発は、多方面から評価いただいています。

女川町の復興に携わる中で、これからの時代に求められる建設コンサルタントのあり方に気づくことができました。それが先にも述べた、多様な利害関係者を結ぶコーディネーターとしての役割です。もちろん今後も、建設コンサルタントとして計画や設計に軸足があることは変わりません。しかし社会基盤のことを理解し、かつ住民や行政とのコーディネート機能をもつ建設コンサルタントは、これからの時代ますます求められると考えます。

今まで、建設コンサルタントの仕事は、行政からの受託事業が主でした。しかし今後は、ソフト面からもまちづくりに携わることで、建設コンサルタントの活躍の場はますます広がっていくと思います。

フットワークの軽さとコミュニケーション力を磨こう

まちづくりのコーディネーターとしてソフト面からも関わる建設コンサルタントのあり方は、これから広がっていくでしょう。もしコーディネーターに関心があるならば、学生の頃から、興味分野を広げ、色々な人の話を聞いてほしいですね。そんなフットワークの軽さとコミュニケーション力があれば、国内外どこの現場に言っても重宝されるはずです。

(部署名・役職等は、2019年2月掲載当時のものです)

間宮 恵理佳

東日本大震災があったから、
私はこの道を選びました。

環境・防災系部門 地盤・防災グループ

2012年入社

間宮 恵理佳 Erika Mamiya

中邨 亮太

スケールの大きい仕事をしたい。
だからコンサルタントを選びました。

構造系部門 橋梁・長寿命化グループ

2011年入社

中邨 亮太 Ryota Nakamura

畠中 仁

海外からも期待される
「鉄道のCFK」の技術力は誇りです。

鉄道系部門 中部鉄道グループ

1999年入社

畠中 仁 Hitoshi Hatanaka

末 祐介

女川町で建設コンサルタントの
新たなあり方に気づきました。

計画系部門 総合政策グループ

1999年入社

末 祐介 Yusuke Sue